河内農場のルーツ 父 河内弥寿生
平成24年6月 父 河内弥壽生が87才の生涯を終えました。
最後まで田んぼのことを気にかけ農業一筋の父でした。
昭和42年 1次入植者として愛媛県から大潟村に入植し米作りを始めました。 河内農場のルーツであります
大潟村入植について ↓
http://www.ogata.or.jp/encyclopedia/history/2-5.html
そのころ愛媛新聞に掲載された記事を紹介させていただきます。
昭和44年10月17日 愛媛新聞に掲載されました
夢は50ヘクタールの経営 「米作り日本一」に執念 東京支社】秋田県南秋田郡大潟村。「この村はわが国農業のユートピアだ。自分の夢をみたすところはここ以外にない 喜多郡内子町大瀬出身の河内弥寿生さん(四四)が、一家をあげて大潟村に入植してから二年。村の人たちは河内さんのことを「モーレツ男」と呼ぶ。 一度始めたら決して途中で投げ出さない男という意味だという。きびしい自然の条件と戦いながら河内さん一家は一歩一歩理想に向かって歩みを進めている。
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予想を上回る収量 「成功です。予想をはるかに上回りました」 「ほら、みてください。周辺の田んぼとそんなに見劣りしない感じでしょう。十町当たり……そう、六俵(三百六十`)は堅い」 朱色の巨象ーーコンバインが、ゆっくりと黄金の波を食い込むように進むそばで、入植者たちは、明るく語りかけてきた。 うれしいのだろう。湖底に生まれた、ここ八郎潟干拓地。「大潟村」での米づくりに、命をかけた男たちなのだから。あれほど待ち望んだ 収穫の夢が、いまここにあるのだから……。 澄み切った秋空。どこまでも広がる黄金の穂波。そのところどころで、朱色や、明るい黄色に化粧したコンバインが、微動している。 近づいてみると、エンジンの音に加えて、ガチャンガチャンと繰り返すキャタピラの音、それに脱穀の音だろうかススー、ススーと聞こえ る静かな音・・・それらが混じり合ってうるさい。そして音のあとには切り株とワラの小山、キャタピラの足跡が幾条にもすじを引くだけだ。 =わが国初の大型農業= かつて、シジミ、ワカサギ、シラウオなどの絶好の漁場だった八郎潟。琵琶湖に次ぐ、わが国二番目の面積を誇った八郎潟。日本海をしゃ断して、水をくみ上げ、大潟村が誕生した。中央干拓地の広さは約 一万六千f。事業費は六百億円を越える。 `ここに、モデル農村の建設が始まっている。経営規模が十fという広さ。しかも機械による直まきをねらった、わが国で初めての大型農業。いま、せわしく動き回っているコンバインのほか、大型トラクタ ー、ヘリコプターなどを駆使した農業。 五千d(玄米七万三千俵)処理のカントリーエレベーター(米穀乾燥調整貯蔵施設)一基も完成したばかりだ。これは関係者が”新農村のシンボル’と誇るもの。将来は十二基つくられる。こうした新しい 姿は、見る者の目を引きつけずにはおかない。 ダンプカーの二、三倍の大きさで、能力は百人分というコンバインさえ、ごく小さく見える。そして刈り取つたモミは、小型トラックや ダンプカーでカントリーエレベーターヘ。 闘志を燃やす入植者 「やっぱり、きてよかった。ますますファイトを燃やしてまず」愛媛県出身の】河内弥壽生さん(43)は、きっばりといい切った。 そして、「来年は、さらに二俵は多く取れます」と、明るくつけ加えた。 第一次入植者57戸のなかには、九州、四国からの人たちもいる。 41年11月の訓練開始以来まる2年。真冬の季節風にド肝を抜き、乾燥の進まないヘドロ土壌に幾たびか悩んだ苦しみの日日。 悩みはまだある。苦労もまだまだ続く。だが、いま味わう感動の武者ぶるいが、あすからは”自信”となってパイオニアたちの心を照らす。 ことだろう。干拓地大潟村に、新しい生活のヒダが印されたのだ。 ・ |
パイオニアの一言 - 父との思い出 長男 河内敬一郎 (愛媛県在住) 私の父は、私が中学に入った頃、突然家族を前に、秋田県の八郎潟の干拓地で米作りをやってみたいと言い出した。 床屋で順番を待っている時に何気なく読んでいた『家の光』という本の中で、米不足だったその時代、淡水湖で約22,000haもある日本で2番目に広い八郎潟湖を干拓して、食糧不足であった 日本の主食である米を増産すべく、昭和の日本の最大プロジェクトとして政府が動き出したのだ。家の光は、「日本各地の営農意欲に溢れる若者たちを入植者として公募する」といった記事だった。 林業とわずかの田畑の耕作経験しかなかった父は、宮崎県高鍋市にある当時最先端の大型農業機械を使っての営農に取り組み始めていた,県立農業高校の校長宛に「自分はこれから八郎潟の入植試験に臨む ため、貴校で聴講生として大型農業機械や稲 作の基礎知識などを勉強させて頂きたい…」 と数枚にわたり意欲を綴った手紙を出したと ころ、しばらくして宮崎県の教育委員会より 『このような事は初めての事で、学校と教育 委員会で慎重に審議したところ、貴殿の熱意 にうたれました。今回は特別として一年間の 入校を認めます。』との返事が返ってきた。 大寒まっただ中の早朝、私たちに別れを告げオ−トバイで宮崎に向け父は出て行った。 宮崎の高校生と一緒に全寮制の暮らしがど うだったかは定かでないが、一年して戻ってきた父の手には、大型免許、大型特殊免許、 牽引免許と校長からの推薦状があった。 また、 数回はまだ誰も耕作暦のない所だけに何度か、 まだ工事中だった干拓地に行き、サンプルの土を持ち帰り、県立農事試験場に、はたして 稲作が出来うる土壌なのかを調べてもらった ところ、数万年の間たくさんの河川の上流か ら流れ込んだ『ヘドロ状』の土は、他にはな いほどの肥沃土だとの太鼓判をもらい、岡山であった最終の入植者選考試験に臨んだ。 各県単位からの選考から始まり、中四国で 14,000人もの入植希望者からふるいに残っ た100名ほどと共に様々な試験を終えて不安を 残して帰宅してきた。 数か月経って結果発表 があり、なんと中国・四国の計9県でたった 2名の合格者の中に入ることができ、父は飛 び上がって喜んだ。 母も一緒に泣いていた。 第一期入植者56名に入れたのだ。 父は入植者としてまずは単身で八郎潟の入植訓練所で、全国から選ばれた仲間と農業機 械・稲作技術などの勉強が始まった。 当時、田植え機等という機械はなぐ、15ヘクタール(当時) を手植えする事も気の遠くなる事で、皆ヘリ コプターを使っての直播栽培での指導でスタ ートをした。 しかし、八郎湖の時からそこは渡り鳥の宝庫であり、干拓後でも数年間は空が真っ暗に なるくらいの鴨や雁、白鳥などが飛来したも のだった。 種を播けば次の朝には鴨の団体御一行様が一斉に「お食事」に来られ、また種籾を播きなおしする、といった状況が続くし、 また、やっと穂が出る頃になっても移植して いない稲株は、分けつがわずかで、収量が望めない有様だった。 翌年の昭和43年の2月、父は母と私たち 子供を迎えに村前に戻ってきた。 その段になっても送別会に集まった親族全員は、まだ秋田に行くことをやめてほしいと、父を説得し続けていたが、 『この村前を捨てる訳じやない。山林の世話も続けながらやっていく。』と 周りを説得させ、夜行列車で一路秋田に向った(公言どおり片道1500qの距離を数 十年間、田植え終了後と稲刈りの終わった後の2往復づつ母と一緒に、秋田と村前を車で 行き来した。)。 極寒の時期の秋田は、まるで 同じ日本とは思えない所だった。当時高校受 験間近の私、弟は小学校5年生だった。弟も 私が10年ほどやっていた営農を引継ぎ、今で は息子と共に25haの稲作に取り組んでい る。 先日、毎年2度は自分で運転して帰ってき ていた父も足腰も弱くなり、姉が一緒に連れ、 飛行機で帰ってきた。 私よりも早く、山の畝 を駆け上がっていた父も、今では裏のお墓まですら一人では行けない。 私は背中に父を負い、お墓に向かう道のりで父がか細い声で言 った。 『お前の仕事はうまくいってるか? 人がやらん事をやろうとすれば必ずいろんな 壁が立ちはだかる。 しかし、誰よりも早く、 一番先を行く事に意義があるんぞ。お前のつ けた道を、そのうちみんなが歩くようになる。 男はバイオニアになれ。きれいな線路の上を 走ろうとするな。お前が線路をつけていけ。 必ず誰かがその後をついてくる。』 すっかり軽くなった背中の父が、重く感じ た。年は老いたが、立派なパイオニアとしての言葉だった。 |